ノーマルチャイルド

青森県小児科医会会長 河内 暁一

先日ふと本棚にあるノーマルチャイルドという本を手に取ることがあった。R.S.Illingworth の名著The Normal Childの第10版を東京女子医科大学元教授の山口規容子先生が翻訳したものである。20数年も前の出版であり、今ではR.S.Illingworthという名前を知っている小児科医は少ないかもしれない。初版は1953年で、1990年の第10版まで、同一著者による改訂がなされ、世界中の小児科医に読まれ続けた本である。

The Normal Childを日本語に訳すとき「正常児」とすると、「正常とは何なのか?正常と異常の境界はどこにあるのか?」という反論が聞こえてきそうである。そのためもあるのか、日本語版のタイトルではそのままのノーマルチャイルドとなっている。しかしこの本で著者は、小児科医が“正常”をよく理解していないために様々な弊害、子どもにとって不利なことが起こることを懸念しており、また発育・発達における“正常”の範囲というものが大変広いことを伝えようとしている。

実は小児科医になって数年後、小児の発達についての勉強が不十分と遅ればせながら気づき、正しい乳幼児健診とはどのようなものなのか考える機会があった。きっかけの一つはあるとき私より先輩の教室員が、都合で市の乳児健診に行けなくなり、卒後一年目の小児科医に「代わりに行ってくれないか!健診は病気の子供を診るのではないので簡単だから」と頼んでいるのを耳にしたことであった。「そうだろうか?健診は新米の小児科医にはとてもこなせるものではない」と心の中で反論した。私も卒業後2年程までは、乳児健診で心雑音を見つけたり、下肢の開排制限を見つけたり、何か異常を見つけると健診をしているという気になったものである。しかし親からの多彩な質問に、しどろもどろになることも多かった。順調に発育していると自信をもって伝えることは、きちんとした勉強をしなければ無理で、病気ではないので心配はないという返事では、とても納得してもらえないと感じていた。

少しは熱心に小児の成長発達の勉強をしたが、その時はこの本にはめぐりあわなかった。後年出会ったときには大変感動したことを覚えている。

この本には時代が異なっても、また国や民族、習慣の違いを超えて、乳幼児の発達に関して普遍的といってもよい真実が、深い洞察と温かいまなざしをもって記載されていた。子どもを取り巻く環境が成長、発達に大きく影響することを母乳栄養、離乳食などの問題、さらに睡眠、排便、排尿などは勿論、色々な行動の問題、しつけと罰などについても、広範に解説されており、まさに目から鱗であった。今読み返してみても、ほとんど色あせた感じがしない。Illigworthは賢明な親の役割とは、子どもがバランス感覚のある人に育つようにすることだと言っている。言うは易く行うは難しであり、一人の人間を無事に育て上げることは大変な労力を必要とするものである。少子化がさらに子育てを難しくしている面もあるように思われる。

よくトレーニングされた小児科医はその年齢、年齢で子どもがどのように育ってゆくのかを体の大きさは勿論、機能の面、情緒の面、社会性の面、知能を含めた言語発達の面などからよく理解している。また多くの親と接しており、子どもが周囲の態度また言葉にどのように反応するのかもよく理解している。

今回この文章を書くきっかけは、ふとこれからの小児科医はノーマルチャイルドのような本を読まなくなるのだろうと感じたからである。同じように我々世代の小児科医がバイブルのように思っていたNelsonのTextbook of Pediatricsも読まれなくなるのだろうか?「Nelsonに書いてあった」という言葉は世界中の小児科医と話をする際に通行手形のような役割があった。昨年目にした「日本小児科学会将来の小児科医を考える委員会」の「将来の小児科医への提言2016」に“単にNelson Textbook of  Pediatricsの追従ではなく、日本の小児科学の成書を作成する”と提案されている。その気概は良しとしても、日本国内でのみ読まれる小児科学書をNelsonのように数年ごとに改定し続けてゆけるものだろうかと心配になる。近い将来今以上に小児科医以外の医師が小児医療にかかわってくると思われる。それらの医師が小児科医のバイブルと言われてきたいくつかの貴重な本を、座右の書とする可能性は無いだろうと思う。ノーマルチャイルドを守り、育てる役割をきちんと担えるのは “normal pediatrician”しかいないと強く感ずるこの頃である。

青森県小児科医会会報19号(平成29年6月20日発行)